エンカルタ百科事典から「スイス」抜粋
I
プロローグ
スイス Switzerland ヨーロッパ中南部にある国。正式国名はスイス連邦。国名は建国時の原初3地域のひとつ「シュウィーツ」に由来する。面積は4万1288km2。人口は709万人(1997年推計)。最大の都市はチューリヒ、首都はベルン。
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II
国土と資源
スイスはヨーロッパでもっとも山地の多い国のひとつで、国土の70%以上が、アルプスやジュラ山脈で占められている。スイスアルプスはヨーロッパで最大の山系で、切りたった連峰とけわしい谷で知られている。アルプスにはいくつかの山脈がふくまれ、そのうちのひとつペンニネアルプスにスイスの最高峰モンテ・ローザ山のドゥフルスピッツェ山(4634m)がある。ジュラ山脈はスキーのクロスカントリーで人気がある。有名な時計製造工業はジュラ山脈の地域ではじまった。

アルプスとジュラの2つの山脈の間には平均標高約400m、幅50kmほどのミッテルラントとよばれる中央台地が南西端のレマン湖から北東端のボーデン湖にまで広がっている。また両山脈の間には長い谷がのび、けわしい横谷がながれこんでいる。そのひとつが南東部にあるイン川にそったエンガディン谷である。どの谷にも細流が鋭角にながれこみ、途中にうつくしい滝ができている所もある。ベルン・カントンにある落差290mのシュタウプバハの滝はよく知られている。

おもな水系はライン川とその支流で、ほかにローヌ川、ティチーノ川、イン川などの河川がある。スイスはアルプス地方の多くのうつくしい湖で有名だが、おもな湖はレマン湖、ボーデン湖、ルガーノ湖、国内最低地点の海抜194mにあるマッジョーレ湖で、いずれも国境線にまたがっている。そのほかヌシャテル湖、ルツェルン湖、チューリヒ湖、ブリエンツ湖、トゥーン湖もうつくしい湖として知られる。
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気候
中央台地や低い谷の地域はどこも温和な気候で、年平均気温は約10ーCである。気温は高度が300mあがるごとに約2ーCさがる。降水量も標高によってかなり変化する。中央台地や低い谷の地域では降水量は年間約910mm。高地では冬の降雪のため降水量が多く、2700m以上の山頂のほとんどは、一年じゅう雪でおおわれている。高い地点では大きな氷河がみられ、とくにペンニネアルプス、ベルナーアルプスに多い。冬の間は「ビーズ」というつめたい北風がふく。その他の季節には「フェーン」というあたたかい乾燥した南東風がよくふく。
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天然資源
スイスのもっとも重要な天然資源は水である。鉱物資源では数少ないが、花崗(かこう)岩、石灰岩、建築石材、岩塩のほか、近年、鉄やマンガンの鉱床もみつかっている。土壌が多孔岩石質である所が多いので、農業は一部でしかおこなわれていない。
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植生と動物
低地や中央台地にはヤシ、モクレン、サクランボ、アーモンドのような地中海性の植物がみられる。標高550〜2000mに広がる森は、1400mまではブナ、カエデなどの広葉樹林、それ以上ではマツやドイツトウヒなどの針葉樹林である。より高い所の草原にはエーデルワイス、アネモネ、ユリ、モンタナマツ、スイスマツなどの高山植物が生育する。アルプスには、スイスカモシカやマーモットなどの動物が生息する。
III
住民
人種的にはおもにアルプス系、北方系、スラブ系からなるが、一般にスイスの民族構成はドイツ語、フランス語、イタリア語、レト・ロマン語などの主要な言語共同体でわかれる。スペイン人やトルコ人、ポルトガル人などもいるが、人口の10%以下である。

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人口
人口は1997年の推計で709万人、人口密度は1km2当たり約172人である。人口分布は均質でなく、おもに中央台地に集中している。人口増加は緩やかで、人口のほぼ5分の1は外国人労働者とその家族が占める。
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行政区分
スイスはカントンとよばれる23の地域からなる連邦国で、うち3つのカントンは政治的に2分割され、半カントンとよばれている。歴史的に地域主権が確立されており、カントンは独自の憲法と政府、裁判所をもつ。

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主要都市
首都はベルンで人口は12万7469人(1995年推計)。その他おもな都市に、国内最大の都市で、金融の中心地チューリヒ(34万3869人)、織物、衣料で知られた商業の中心地バーゼル(17万4007人)、文化、金融、時計・宝石で名高い工業の中心地ジュネーブ(17万3549人)、鉄道のターミナルで、鉄製品の工業の中心地ローザンヌ(11万5878人)がある。

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宗教
カトリックは人口の約46%、プロテスタントは約40%である。イスラム教、ギリシャ正教、ユダヤ教は少数派で、無宗教は約10%である。信教の自由は保障されている。
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言語
公用語は、人口の約64%で話されているドイツ語、19%のフランス語、7%のイタリア語、1%にもみたないレト・ロマン語の4つである。一部ではスペイン語、ポルトガル語、トルコ語も話されている。多くのカントンで一般的に話されているのは、スイス・ドイツ語で、ドイツ語の書き言葉や他のドイツ方言ともかなりことなる。新聞、雑誌は標準ドイツ語で書かれ、演劇、映画、テレビにもドイツ語がつかわれている。
IV
教育と文化
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教育
スイスは、16世紀の宗教改革者カルバンに代表される宗教教育の伝統と、18世紀のジュネーブ生まれの哲学者ルソーの啓蒙思想や、教育改革者ペスタロッチの近代教育思想によって世界に大きな影響をあたえてきた。現代では心理学者ピアジェやユングの理論が世界的にみとめられている。
教育の主権は各カントンにある。カントン間で学校制度に差があるが、義務教育は9年制が多く、無料である。生徒たちはカントンの公式言語でおしえられ、他のカントンの言葉もまなぶことができる。識字率は100%に近い。おもな大学には、最古のバーゼル大学(1460年創立)のほか、ローザンヌ大学(1537)、ジュネーブ大学(1559)、チューリヒ連邦工科大学(1855)があり、多数の外国人留学生がまなんでいる。
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文化
スイスの文化は、ドイツ、フランス、イタリアの文化の混合がみられ、とくに文学と美術と音楽が注目される。スイスは昔から多くの外国の影響をうけ、中世初期にすでに高い文化をもっていた。とりわけカロリング朝の文化は絵画とロマネスク建築で花開き、ザンクトガレン修道院は西欧文化のかがやかしい中心地となった。ヒューマニズムや宗教改革のようなもっともヨーロッパ的な文化的、社会的変革もスイスを中心に展開した。カルバンやツウィングリなど、スイスの宗教改革者のはたした役割は大きい。
18 世紀にはいるとスイスの文化はしだいに国際的になり、演劇や音楽が発展した。バーゼル市立劇場、ベルン市立劇場、ジュネーブ大劇場、ローザンヌ市立劇場などが演劇の拠点となった。音楽ではチューリヒ歌劇場がよく知られている。
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博物館
チューリヒのスイス国立博物館には、大規模な歴史的コレクションがある。バーゼル、ベルン、チューリヒの美術館は、15〜16世紀のドイツ美術をはじめ、17〜18世紀のオランダとフランドルの美術、19世紀のフランス印象派や現代ヨーロッパの作品を多数展示している。
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文学
スイス文学は、ラテン・スイス文学、ドイツ・スイス文学、フランス・スイス文学からなりたっており、隣国の文学と密接にむすびついている。イタリア・スイス文学、レト・ロマン文学とスイス方言文学には、さほど注目すべきものはない。ラテン・スイス文学は、中世の宗教的作品と人文主義的作品にすぐれたものがある。スイス文学でもっとも重要とされるのはドイツ語によるもので、中世の吟遊詩人にはじまる、民族的バラードや14〜18世紀の年代記がある。注目すべきドイツ・スイス文学の作家には、ケラー、マイヤー、ヘッセ、シュピッテラー、ゴットヘルフ、フリッシュ、デュレンマットがいる。フランス・スイス文学ではラミュスがいる。よく知られている「ハイジ」(1880)はシュピーリによって書かれた。
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美術
国際的に評価の高い画家は、15世紀に活躍したウィッツ、フュッスリをはじめ、ベックリン、ホドラー、クレーである。彫刻家のジャコメッティや建築家のル・コルビュジエも世界的によく知られている。
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音楽
重要な作曲家にはブロフ、シェック、マルタンがいる。エルネスト・アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団の指揮者として世界的な名声をえている。伝統的な民俗音楽では裏声を多くつかう言葉のない歌のヨーデルやアルペンホルンが有名である。
V
経済
スイスは工業化を高レベルに発達させた国のひとつで、生活水準が高い国として知られる。1995年のGNP(国民総生産)は3039億ドル、1人当たりでは2万4522ドル。サービス業はもっとも強い分野で67%の人が従事している(うち商業と金融は13%)。製造業、建設業は29%、農林漁業は4%となっている。
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農業
土壌、気候ともに農業に不利なため、食糧は消費用と農業用で輸入している。ほとんどの農場が小規模な家族経営である。1990年代初めのおもな農産品は、テンサイ、ジャガイモ、コムギ、オオムギ、リンゴ、ブドウ、ワインなど。酪農も農業の重要な一部門で、90年代半ばには毎年約390万tの牛乳と13万4600tのチーズがつくられている。

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林業と漁業
木材の生産は、1990年代初めで年間455万m3。ほとんどは板材と紙の製造につかわれている。近年は大気汚染により森林の35%以上が被害をうけ、林業も痛手をおっている。漁業はサケやマスのような魚がとれるにすぎない。
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鉱業
スイスの鉱業は弱小であり、あまり重要な産業とはなっていない。1990年代初めの年間鉱業生産は、岩塩をふくめて約25万tである。
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工業
天然資源が極端にかぎられているにもかかわらず、スイスは工業がひじょうに発達した国のひとつである。天然資源を輸入し、熟練した労働者の手によって貴重な輸出品にかえられている。工業では精密工業、とくに1990年代半ばの輸出収入の約8%を占める時計製造業が発達している。重工業では発電機やタービンのような注文製造の機械工業が多い。食品ではチョコレート、チーズのように高級品化されたものが主体で、織物、化学製品も多い。オルゴール、刺繍、レース、木彫細工などの工芸品も世界的に有名である。
刺繍
砂時計
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エネルギー
スイスは水資源が豊かで、1990年代初めには総電力の約59%が水力発電から生まれた。残りのほとんどは原子力発電による。年間の総発電量は約560億kWhである。
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通貨と銀行
通貨の単位はスイス・フランで、1スイス・フランは100サンチームである。スイス国立銀行が通貨発券銀行だが、資本はカントンや他の銀行、民間によっている。この国の政治的、金融的な安定と伝統的な機密保持が世界の預金者や金融家に歓迎され、スイスは国際的な金融の中心地になっている。チューリヒはスイスの銀行の本拠地で、UBS(1998年にスイス・ユニオン銀行とスイス銀行が合併)、クレディ・スイス銀行などがある。チューリヒの株式市場はヨーロッパでもっとも重要なもののひとつ。またチューリヒは世界的な金の取引センターでもある。
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外国貿易
1996年の輸入高は約745億ドル、輸出高は762億ドルである。おもな輸出品は機械、薬品、時計、精密器具、織物、衣料など。輸入品は、機械、自動車、衣料、化学品、精密器具、薬品である。おもな輸出相手先は、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、イギリス、オーストリア、日本。また輸入相手先は、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、イギリス、オランダ、日本、オーストリアなどである。
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交通
アルプスをとおるハイウェー・トンネルは3つあるが、15kmのザンクト・ゴットハルト・トンネル(→
ザンクト・ゴットハルト峠)は世界でもっとも長いハイウェー・トンネルである。シンプロン・トンネルなど、アルプスをぬける鉄道トンネルは多くあるが、さらに交通緩和のために高速道路が計画されている。
1994 年2月の国民投票で、大気汚染と騒音から環境をまもるため、スイスを通過するだけのすべての重量トラックの通行禁止が決定された。この禁止令はヨーロッパの多くの政府からきびしく批判された。2004年まで、スイスを通過する大型トラックはすべて平台型の鉄道車にのりかえることになった。
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労働
1990年代半ばのスイスの労働力は約380万人で、そのうち94万人ほどがイタリア、スペイン、ポルトガル、フランスなどからの外国人労働者である。
VI
政治
スイスは連邦共和制で、1874年5月29日に制定された憲法にもとづいて政治がおこなわれている。政治機構は人民主権のもとに直接・間接民主制をくみあわせた比例代表制をとっている。連邦選挙では、18歳以上のすべての国民が投票権をもつ。女性は1971年の国民投票により参政権をかちとった。スイスは、国民投票によってさまざまな重要な課題をきめている。憲法の改正は選挙民5万人の要求によって発議され、国民投票によって承認されなければならない。
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行政
スイス連邦の行政権は連邦内閣にあたえられている。この内閣は国民議会と全州会議の2院からなる連邦議会の合同会議でえらばれた4年任期の7名で構成される。内閣は連邦議会に対し共同責任をおう。大統領、副大統領は連邦内閣の閣僚の中から1年任期で輪番制でえらばれ、再選は禁止されている。
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立法
スイス連邦の議会は二院制である。全州議会(上院)は各カントンからそれぞれ2名、半カントンからそれぞれ1名選出された46名で構成される。カントンによって任期はまちまちである。国民議会(下院)は任期4年で、各カントンから比例代表制の直接選挙によってえらばれた200名で構成される。
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司法
ローザンヌの連邦裁判所は、連邦議会の合同会議によって6年任期でえらばれた30名の裁判官で構成される。連邦とカントン、法人と個人、カントンどうしの訴訟などをあつかい、多くの訴訟は各カントンの裁判所がうけもつ。死刑は1942年に廃止された。
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地方自治
各カントンは連邦に委任していないすべての主権をもっている。地方政治の形態はさまざまだが、小さいカントンではランズゲマインデという住民の挙手によって審議を決定する直接民主主義の集会をしている所もある。しかしほとんどのカントンでは、立法は住民投票によってえらばれた者による代議員制である。ゲマインデは政治の基本となる地域単位で、大きな自治権をもっている。スイスには全部で3000以上のゲマインデがあり、いくつかのゲマインデはグループ化して地区となり、そこではカントン政府代理の知事が行政の責任者となっている。
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防衛
常備軍をもたないスイスでは、兵役はすべての20〜42歳の男子の義務である。比較的短期間の訓練であるが、ライフル、制服や他の備品を各自は家で保管しているため、48時間以内に臨戦態勢がとれる。総動員した状態でスイス軍の兵力は約39万人である。
VII
歴史
前ローマ時代、現在のスイス地域にはケルト系のヘルベティア人がすんでいたが、前1世紀にカエサルに征服されてローマ帝国の属領となった。4世紀、ゲルマン人の西ローマ帝国侵攻を通じて、この地にはブルグント人やアレマン人が定住するようになった。
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中世
5世紀になるとフランク人が登場してアレマン人を征服し、6世紀にはブルグント人を征服した。フランク王国はキリスト教にもとづく新文明をとりいれた。その後フランク王国が分裂し、ブルグント王国とランゴバルト王国が抗争する時代がつづいたが、1033年、神聖ローマ帝国の支配下にはいった。その後、封建貴族や修道院などの支配する小さな地域や帝国から自治をゆるされた小さな都市国家の集まりとなっていったが、やがてそれらは地域的連合体を形づくっていく。
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独立のための闘争
1276年、ハプスブルク家のルドルフ1世は、スイス人の伝統的な自由と自治をおびやかし、封建的支配を強めた。これに対抗してルツェルン湖をとりまくウーリ、シュビーツ、ウンターバルデンの3地域は、91年に相互防衛のための「永久同盟」をむすんだ。この同盟がのちのスイス連邦の核となった。14世紀にルツェルン、チューリヒ、グラールス、ツーク、ベルンが同盟にくわわり、さらに15世紀にはフリブールとゾーロトゥルンも加盟した。1499年、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世はスイス同盟を圧迫してシュワーベン戦争をひきおこしたが、戦いにやぶれ、バーゼル条約によってスイスは事実上の独立がみとめられることになった。
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宗教改革
スイスの宗教改革は1518年にツウィングリがチューリヒで新しい教義を説き、ローマ・カトリック教会を非難したときにはじまった。しだいにチューリヒ市民の支持をえていき、28年にはベルン、29年にはバーゼルでも改革がすばやくうけいれられていった。36年、ジュネーブでカルバンがローマ・カトリック司教の権威を拒否し、自分の教会を民主的に運営する動きをみせはじめた。41〜64年ジュネーブは、プロテスタンティズムの本拠地になる。1618〜48年の三十年戦争では、スイスの各地域は中立をたもった。結果、48年のウェストファリア条約によって、スイスは国際法的に独立を承認されることになった。
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連邦国家の誕生
1790年代にフランス革命はスイスにまで広がり、98年にスイス革命派は全領土を占領した。革命派に軍事援助をしていたナポレオンはヘルベティア共和国を樹立したが、スイス各地域の反発は強く、ついに内乱となった。1803年、この内乱をおさめたナポレオンの調停条約によって、スイスは19のカントンからなる連邦国になった。15年のウィーン会議はスイスの永世中立をみとめ、スイスはジュネーブ、バレー、ヌシャテルをくわえて22カントンとなった。
スイスが連邦国家へむかう中、保守派と民主派、カトリック派とプロテスタント派との間にはいくつかの衝突があった。1847年、カトリックのカントンは分離同盟をむすんで内乱をおこしたが敗北した結果、48年に連邦憲法が制定され、22のカントンからなるスイス連邦が誕生した。74年には連邦憲法が大改正され、現在の連邦憲法となっている。1979年、ベルン・カントンのジュラ地方が住民投票、国民投票を何度もくりかえしたのちに分離がみとめられて、23番目のカントンとなった。
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中立国家
スイスは伝統的な中立政策によって、国際会議や多くの国際機関の本部に好都合な場所になっている。1863年に国際赤十字の本部が設立され、1914〜18年の第1次世界大戦後には国際連盟の本部がおかれた。39〜45年の第2次世界大戦中も中立をまもり、今もって国際連合に加盟していない。しかし、このことが国連と提携している多くの国際機関をうけいれ、国連で永久的なオブザーバーの位置を占めることを可能にしている。
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国内問題
1971年、女性の参政権と女性が連邦職員になる権利がはじめてあたえられた。79年までに国民議会の議席の10%以上が女性によって占められ、90年にはすべてのカントンで、女性参政権をみとめた。
最近、スイスは国際的な圧力をうけて、伝統的な銀行の秘密主義をゆるめている。預金の不法取得や運用に疑いのある場合、外国の調査員が銀行の書類を閲覧することができるようになっている。
1992 年、スイスは国際復興開発銀行、IMF(国際通貨基金)に加入した。しかしこの年の12月、選挙民はEEA(欧州経済地域)に加入することを否決した。これは、その年の初めのEC(現EU:欧州連合)への加盟申請に対する住民の反対表明であった。しかし93年11月にはEU加盟への機運が高まり、選挙民はEU諸国の税体系にあわせての付加価値税に賛成した。94年6月の国民投票では、スイス軍が国連平和維持軍にくわわることが否決されたが、96年には政府はNATOの安全保障構想である「平和のためのパートナーシップ(PFP)」の枠組み協定に調印することを決定した。 |