中国(広州・桂林・昆明)の旅
2 広州 (2002/11/24)
ツアーの一行(34人)が、広州の空港に着いたのは午後2時過ぎ(成田から5時間ほど)、気温は19度で暖かい。時差は1時間(遅い)。
早速バスで中山記念堂(孫文を記念して建てた)へ。このページの写真はクリックすると大きくなります。
記念堂の内(ホール−3,700席)外部
広州博物館を見学した。ここは16世紀の建物で 高さ28メートル5層からなり鎮海楼と呼ばれている。、土器から明・清時代のものが展示されている。
外観 変わった形の土器 14世紀の水時計 5階から見たサッカー場と市内のビル群
広州のシンボルともいわれている「五羊石像」を見るために、高台にある越秀公園に行った。この五頭の羊は、昔この地では米が採れなかったが、羊五頭を連れた仙人が稲を持ってきたので、採れるようになり今では米の一大産地になったという伝説から、これが建立されたという。
夕食は「バン渓酒家」で子豚の丸焼き(10人ほどのテーブルに一頭)だったが、見た目が生々しくて食欲がわかなかった。これは中国の4大珍味(北京のダック、上海の蟹、四川の麻婆豆腐)の一つだという。でも、あの形を見るとどうも…
バン渓酒家と子豚の丸焼き
夕食後22時の飛行機で桂林(飛行時間1時間)へ飛び立ち、ホテルに着いたのは深夜になってしまった。
2泊した桂林帝苑酒店
孫文(エンカルタ百科事典から)
1911
年に中国でおきた辛亥(しんがい)革命によって清朝がたおれ、南京で中華民国臨時政府が樹立されると、孫文は臨時大総統に就任した。ほどなくしてその地位をゆずった袁世凱が16年に死去すると、第1次国共合作を成立させて、反軍閥、反帝国主義の闘いをすすめた。孫文が提唱した三民主義は、その後長く中国の思想としてのこった。
広州(エンカルタ百科事典から)
I
プロローグ
コワンチョウ(広州) 中華人民共和国南部コワントン(広東)省中央部にある省都。華南最大の都市で、古くから対外交易の拠点として知られる。チュー(珠)江三角州の北端に位置し、市内を珠江がながれる。面積は7434km2(市区は1444km2)。人口は647万人(市区は385万人、1995年)。
II
経済
消費都市だった広州は、中華人民共和国の成立後、紡績、食品、製紙などの工業が急速に発展した。また石油化学、造船、機械などの重工業もおこり、近年は家電工業、電子工業もくわわって、華南最大の工業都市に成長した。象牙(ぞうげ)細工、彫刻などの伝統工芸も健在。省内の農産物の集散地であり、ペキン(北京)〜広州鉄道などの陸路をはじめ、外港ホワンポー(黄埔)港を利用する海路、パイユン(白雲)空港からの空路と、華南の交通の中心である。
III
観光と文化
市街北部のユエシュウ(越秀)山(70m)には、市のシンボルである五羊石像がたち、周辺に辛亥革命の指導者孫文を記念してたてられた中山記念堂、アヘン戦争時の砲台遺跡などが点在する。市内には1700余年の歴史をもつ光孝寺などの旧跡のほか、中国近代革命の記念建築物が多数ある。中山大学(1924年創立)など28の高等教育機関がある。
IV
歴史と対外開放
前9世紀には集落が形成されていた。前220年秦が嶺南を征服したのち、南海郡府を番禺(現、広州)においた。三国の呉(226)がここ一帯を広州としたのがその名の由来である。古くから南方海上交通、南方貿易の要衝として発展し、唐代に国内最大の貿易港となった。1957年以、来対外貿易の窓口として毎年春秋2回、広州輸出商品交易会が開催される。
広州では、中国近代史の幕開けというべきアヘン戦争、清朝反対の黄花岡蜂起(1911)、国民革命軍の北伐(1926)、広州コミューン(1927)など数多くの重要な事件がおこった。1949年に解放され、84年には沿海開放都市に指定された。また日本の政令指定都市のような権限があたえられる計画単列都市でもある。福岡市と友好関係をむすんでいる。